館内の検索はコチラ

|文字を大きくするには|

しぜん ぶんや
しょくぶつ
どうぶつ
かんきょう

みんぞく ぶんや
くらし
れきし
ちり

ねんぴょう


地理 地理 Total:98 (98)
暮らし 暮らし Total:82 (0)
・まつり (9)
・道具 (6)
・民芸品 (5)
・柳井の昔ばなし (62)
歴史 歴史 Total:191 (0)
・史跡 (160)
・人物 (19)
・文化財 (11)
・文学 (1)

   データベースにある画像は 371 枚です    

最新リスト

5 番〜 5 番を表示 (全 371 枚)« 1 2 3 4 (5) 6 7 8 9 10 11 12 13 14 ... 371 »


坂田昌一

坂田昌一高ヒット
   カテゴリー人物    前回更新2009-1-22 9:06    

湯川秀樹に学び、小林誠、益川敏英両氏を導いた日本を代表する理論物理学者(柳井市阿月 面影山墓地)

 平成20年のビッグニュ−スはノーベル物理学賞に南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏、化学賞に下村脩(おさむ)氏と日本人が一挙に4人受賞したことです。南部博士らは「対称性の破れ」に迫り、下村博士はクラゲから蛍光物質抽出でした。ノーベル賞受賞記念講演で、小林誠博士は『1956年に唱えられた坂田昌一・名古屋大教授の「坂田モデル」は、クォ−ク理論の先駆けとなるものだった。私たちは、坂田研究室で、独自の研究をするという精神を学んだ。………』と、また、益川敏英博士は座談会で『名古屋大学の恩師の坂田昌一先生の敷いた路線があった。坂田モデルとも言われる複合粒子モデルはクォ−クモデルの先駆け。素粒子と思われていた陽子や中性子、バイ中間子などにはさらに基本粒子があるというもので……。』と、坂田昌一博士の研究がノーベル賞受賞の背景にあるということを話されています。

 この坂田昌一先生のお墓が柳井市阿月にあることは、残念ながらあまり知られていません。坂田昌一先生のお墓が何故阿月にあるのか?それは坂田昌一先生のルーツが阿月だからなのです。

【坂田博士のルーツ】
坂田博士の父、坂田幹太(みきた)は柳井市新庄欣慶寺(ごんけいじ)住職水谷良高の長子に生まれ、阿月の坂田昌熾(まさあき)の養嗣子となる。旧制第一高等学校を経て東大法科を卒業、愛媛県知事、香川県知事を歴任し、大正8年退官して高松市長に就任。ついで貴族院議員を拝命した。大正9年実業界に乗り出し、大阪合同紡績取締役、阪神国道自動車社長、日本鋼材会社・尼崎築港・阪神築港・東洋鉱山などの取締役を歴任、昭和33年10月4日逝去、享年79。墓は柳井市新庄欣慶寺にある。
 坂田幹太の養父坂田昌熾は、嘉永4年(1851)阿月浦家の家臣坂田与八の次男に生まれ、8歳で克己堂に入学し、赤祢武人に書を、白井小介に経書を、島末清記に槍術を、芥川三九郎に剣を学んだ。四境の役では浦家一手の幹部として大島口の戦闘に活躍し、維新後は西洋事情の研究を志して、明治2年横浜仏学校、ついで神戸英学校で語学を学び、さらに大阪天満の紀州学校で英語を学んだ。その後、海漕会社に勤務しその間独学で航海学を修め、海軍に奉職、海軍少尉を振り出しに累進して海軍少佐となり、日進艦の航海長、横須賀鎮守府兵器部長、軍港司令官副官、軍法会議判士長、造兵廠火薬科長を歴任して退官。明治27年山口県第四選挙区から衆議院議員に当選し、特に海軍関係法案の審議に功績をみとめられた。(柳井市史総論編)

【坂田博士のプロフィール】
 明治44年(1911)1月18日 〜 昭和45年(1970)10月16日
 旧制甲南高等学校を経て昭和8年(1933)3月京都帝国大学理学部物理学科を卒業後、理化学研究所で仁科(にしな)芳雄博士に師事し、同9年大阪帝国大学理学部助手、同14年京都帝国大学理学部講師になる。湯川秀樹教授の研究室では素粒子の研究に取り組み、同16年に「中間子の自然崩壊の研究」で学位を得、翌17年には「二中間子論の研究」を発表。核力の起源となる中間子と当時宇宙線中に発見された中間子との違いを説明するために二中間子論を提唱した。同年10月名古屋帝国大学理学部教授となる。昭和30年(1955)、中性子・陽子・ラムダ粒子が最も基本的な粒子として他のハドロンはこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるという素粒子の複合模型『坂田模型』を発表した。同37年(1962)には牧二郎、中川昌美と共にニュートリノ振動の概念を提唱。同39年(1964)毛沢東と対面したとき、その無限に続く構造としての素粒子に「層子という名前がよい」と毛が提案したと言われる。毛は自国の物理学者に、坂田博士の理論に基づいて層子論を研究するように指示したと言われる。昭和41年名古屋大学理学部長に就任。坂田学派と呼ばれる多数の弟子を育てたことでも有名。坂田博士の流れを汲む研究者としては小川修三、山田英二、牧二郎、大槻昭一郎、大貫義郎、梅沢博臣、高橋康やこのたびノーベル物理学賞を受賞した小林誠、益川敏英らが有名である。
 受賞暦は
昭和23年(1948)・朝日賞
昭和25年(1950)・恩賜賞
 著書には
 湯川秀樹博士と共著の『原子核および宇宙線の理論』ほか多数がある。
                     (フリー百科事典『ウィキペディア』)

 【坂田博士の墓所】
 柳井市阿月、面影山の高台で瀬戸の島々を眺望できる場所に、中国の文化人、郭沫若の漢詩が正面に刻まれ、側面に湯川秀樹博士の撰文を刻した銅板がはめ込まれた墓碑がある。そこに坂田昌一博士が眠っている。博士は直接には阿月との縁は薄いが、人一倍愛郷心に富み、その生前からの遺志により、坂田家の墳墓の地に永眠することになった。



 【その他】
坂田文彦(原子物理学)、現茨城大学理学部長・教授は、坂田昌一博士の子息である。
 文責:学校支援ボランティアメンバー、金子佳孝

5 番〜 5 番を表示 (全 371 枚)« 1 2 3 4 (5) 6 7 8 9 10 11 12 13 14 ... 371 »



Copyright © Yanai Community Museum, Yamaguchi. All rights reserved.