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赤祢武人(あかねたけと)
赤祢武人(あかねたけと)高ヒット
前回更新2008-3-8 12:27    
武人の生家は、大島の東部沖、柱島にありました。ときには岩国藩の流人の島ともいわれ、どちらかといえば平地の少ない島です。けれども昔は、村上水軍能島家の領地でした。人情の厚い美しい島です。赤祢武人は、この周防国玖珂郡柱島の医者・松崎三宅の子として、天保九年(1838年)一月十五日に出生しました。
 若いころから僧月性や郷塾・克己堂で学んだ学識と、その後京都に出て梅田雲浜に師事したことや、次いで江戸に遊学して桜任蔵や羽倉簡堂に経史を学んだことは、赤祢に、よりいっそう広範な知識をそなえさせるに至っていました。
 赤祢の世の中の推移を洞察する明晰な眼力は、高杉や山県など及びもつかないほどでした。しかし、何よりも大きいのは赤祢の性格が温かく穏健であることでした。これだけの人物であったから、多くの奇兵隊士に慕われ、信望も集めていました。ところが、赤祢武人は、高杉や山県らによる卑法な手段と陰謀により、元治元年(1864年)十月十日奇兵隊三代総督を辞任させられてしまったのです。それは、徳川幕府に和順謝罪する俗論党に通じたという根も葉もない理由からででした。
 赤祢は、藩内両派の意思疎通を図って、できるだけ犠牲をなくそうと画策していました。次々と暗殺されていく同志を、これ以上増やすことに我慢しきれなかったからです。かれの心のどこかに、人を助ける医者の子の血が流れていたのでしょう。赤祢は、この際「藩論統一」を認識させることがまず大事であることを、しきりと説きました。
 高杉や山県は、赤祢がたびたび隊を離れて萩や山口に行くのを怪しみ、隊士の前ですらはっきりと、「あの大島の土百姓めが」と酒を飲んでは罵倒した。高杉の目的は、強引に藩政を転換して、倒幕決起に走ることでしたが奇兵隊は、みな赤祢の主張を信頼していました。赤祢に対する高杉の誤解と焦りは、むしろいらだちに変わっていきました。
 赤祢を総督から引きずり下ろした高杉は、十一月初旬、藩政府からも、また、隊士の中からも、その命をねらわれました。こうなると、変り身の早い高杉は危険を感じて九州筑前へ逃走しました。
 しかしまもなく帰国するや、下関で伊藤俊輔(博文)を説得して協力を求め、遊撃隊、力士隊80名を率いて、大雪の中、下関の功山寺に挙兵しました。
 このような推移に、健康上の理由もあって武人は辞職願をしたため、青年期を過した阿月で体を休めた後、郷里柱島に帰りました。
 だが、事は思いもよらぬ方向に進展していたのです。奇兵隊勤務中脱走という冤罪をきせられ、弁明の機会も与えられないままに、山口で処刑されました。享年二十八歳でした。
 【赤祢武人屋敷跡】

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