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若山牧水(わかやまぼくすい)
若山牧水(わかやまぼくすい)高ヒット
前回更新2007-4-20 13:37    
 宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれました。
明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。
明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれました。 明治41年(1908年)早大英文学科卒業。7月に処女歌集『海の声』出版。翌、明治42年(1909年)中央新聞社に入社。5ヶ月後に退社。
明治44年(1911年)創作社を興し詩歌雑誌「創作」を主宰。この年、歌人・太田水穂を頼って長野より上京していた後に妻となる太田喜志子と水穂宅にて知り合いました。明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合ました。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうけました。
大正9年(1920年)沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住。大正15年(1926年)詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。この年、静岡県が計画した千本松原伐採に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させました。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に出発し、約2ヶ月間にわたって珍島や金剛山などを巡るが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43。沼津の千本山乗運寺に埋葬されました。
牧水の死後、詩歌雑誌「創作」は歌人であった妻・喜志子により受け継がれました。
 伊保庄開作の沖合いの鳥島波打ちぎわに、縦4.70m、横4.40m、奥行き3.70mの巨石があります。花崗石で縦1m、横1.45mを平坦に削った面に刻まれたこの歌は、若山牧水の作並びに書です。
 伊保庄の村上磐太郎は大正十年(1921年)、若山牧水の門に入り可卿と号し、のち創作同人となりました。同十四年(1925年)十一月三日、若山牧水が喜志子夫人とともに九州方面への旅行の途中、柳井駅に下車して可卿を訪れています。そのときの牧水の歌三首がありますが、そのうちの一首がこの歌です。
 鳥島の波打ちぎわにこの歌碑を建てたのは村上可卿で、昭和十九年(1944年)のことです。

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